日感アルダ

映画、ドラマ、文化、日常の果てしなき考察

映画「ドライブ・マイ・カー」考察&感想〜罪悪との向き合い方

先日、兄の命日だった。
その夜、なんとなく「ドライブ・マイ・カー」を観た。

◇◇◇

人の死は人の人生を大きく変える。

家福が妻、みさきが実母を見殺しにしたという罪悪感を抱え生きているように、音も娘の死に大きな責任と罪悪を感じていたことだろう。

それが新たなる罪悪を生み出し止まらなくなっていたのだろう。

みさきは嫌なことだらけの北海道から逃げるようにひたすら車を西へ走らせ、車が故障した広島になんとなく留まる。中学の時に毒母に覚えさせられた運転は、自分自身の生活を支える糧となる。

生きることで懸命だったみさきは気ままな「ドライブ」を楽しんだことがないだろう。

家福の仕事を受け、忠実に仕事をこなす中で、見ぬふり聞かぬふりのいざこざの他に、みさきは家福に自分と同じ悲しさがあることに気づく。

車内でのひととき、そして家福に同行し食事や演劇を見たりしたことは、父と娘のように楽しく、そして家福も亡き娘と重ねていたことだろう。互いに気づいてないかもしれないが。

家福も昔は家族3人でドライブを楽しんでいたけど、娘の死以降、妻と2人の車内は単調なセリフを覚える場と化したのではないのだろうか?

広島で生活をしていたみさきは、更に西を目指したのか、韓国の「釜山」にいた。

ごみ処理工場は、平和公園へと繋がっている平和の軸線線(原爆ドームと慰霊碑を結ぶ線)を塞がず海に向かって伸びていくように吹き抜けになっている。

リラックスした雰囲気でマートで買い物をし、家福から譲り受けたのだろうか?赤いSAABに乗る。
運転席から顔を出す相棒と思しきワンコと至福のドライブだ。

みさきはドライバーの仕事を通じ、様々なことを得たはずだ。特に家福との仕事では、ユンス家の家庭のあたたかさに触れ、高槻とのやり合いに立ち会い綺麗事の裏に潜む行きどころのない大人の悲しき事情を知り、最後に家福とユリムの舞台を観、一見無表情なみさきではあるが感銘を受けた様子が強く伝わってきた。

あの戯曲のように言葉は通じ合わなくても、人の心は通じる。

しかし、相手を理解もっと深く知りたいと思えばそれは変わっていく。

ユリムをもっと知りたいとユンスが手話を学んだように…。

◇◇◇

みさきの父の苗字は「渡」とのことだが、みさきは父を探すというよりは自分の人生を探すために海を「渡」ったようだ。

そして、父親が娘に大切なものを授けるように、みさきは家福から愛車を譲り受けたようだ。

家福はもう車を運転することはないだろう。目を悪くした云々ではなく、車への執着が消えたかと思われる。

家福が家福の人生の大半を過ごし、亡き娘や妻と会話を楽しみ、苦しみ悶え、様々な思いを反芻した車内。

今度はそこでみさきの物語が繰り広げられる。

そのみさきの物語が、家福と父と娘のように楽しく共有されていってほしいと願ってやまない。

◇◇◇

感想あとがき

前オーナーに愛され大切にされた車や時計の類のビンテージは、それそのものに宿った時や想いが付加価値となると感じます。

そしてそれをどう感じるかは、それを与えられた本人にそれと共鳴できる部分があるかなないかにかかってくると思います。

車を所有するということには喜びや楽しみの他に、ある種の面倒臭さと「責任」が生じてきます。

そして、免許を返納するか?しないか?の迷いが訪れる日が必ずあります。

車は人生。

映画や本に人生を感じるのと似ています。

それは車を運転しなくともある程度人生を乗りこなしてきた人ならわかる世界。

この作品が響く部分はそこであるかと思います。

人は皆、罪悪を抱えています。

それとどう向き合い付き合っていくか?は、手のかかる車との付き合い&積み重ねた危機を乗り越えるドライビングテクニックとメンテナンスタイミングと似てるなと思いました。

 

<作品情報>

「ドライブ・マイ・カー」(Drive My Car)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
原作:村上春樹『女のいない男たち』 文藝春秋
製作:山本晃久
出演者:西島秀俊三浦透子霧島れいか岡田将生
製作会社:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
公開: 2021年8月20日
上映時間:179分