こんばんは、ぷんおです。
2022年9月13日、ジャンリュック・ゴダール監督がお亡くなりになりました。
享年91歳の大往生です。
死はあらゆる生き物に平等に訪れる。
私も一刻一刻その時に近づいているんだと改めて命の期限を感じるとともに、青春時代に彩りを添えてくれた巨匠に感謝いたします。どうぞ安らかに。
◇◇◇
様々な作品が脳裏にフラッシュバックする中、真っ先に思い出した作品は『女と男のいる舗道』(1962年)。
今日はこの作品の思いと感想を書きたいと思います。
◇◇◇
まずは、あらすじをざっくり説明。
主人公ナナ(アンナ・カレーニナ)が夫と子供を捨て女優になる夢に向け自立しようとするのですが、やがて金に困り家賃も払えずやがて路上売春婦(立ちんぼ)に身を落とし、その出会いの中で男に夢中になり女優の夢もどっかにいく。その男はナナを売り飛ばす目的であり、最後バーン🔫💢
・・・といった感じになります。雑でごめんなさい。
◇◇◇
オシャレな映像とカメラワーク。
だがしかし、内容は万国共通の普通だった女があれよという間に娼婦に堕ちゆく様子です。
(〜個人的感想です)
主人公ナナは、当時先端のオシャレな生活でアレコレ哲学的なことを色々言ってますが、単なる娼婦。
カフェでカッコつけても、タバコを燻らせても、オシャレな洋服を身にまとっても、娼婦に堕ちた女は娼婦でしかない。
(〜娼婦差別ごめんなさい)
◇◇◇
この作品は12のチャプターから成り立っているのですが、個人的には11の『シャトレ広場 - 見知らぬ男 - ナナは知識をもたずに哲学する』がお気に入りです。
ーーざっくり説明ーーー
〜見るからに娼婦とわかるケバい女になってしまったナナは、カフェで初老の読書をしてる爺さん(ブリス・パラン ※本物の仏の哲学者)に声をかけます。
ナナと爺さんは話すことの有用性や言葉の普遍性について論議をしはじめます。
爺さんは様々な書物や経験を引用し語ります。
ナナは次から次へと被せるように意見や質問を重ねます。
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このチャプター11のどこが肝(キモ)なのかといいますと、ナナの論議は若さ故の聞きかじりの上っ面で、爺さんの言葉の全てには経験と裏付けがあるのです。
爺さんは数々の金言を発しますが、ナナは爺さんのたわごと感で話半分で聞いております。(カメラ目線を決め込んだりうわの空だったり)
◇◇◇
さてさて、このチャプター11の解釈なのですが、当時のこういった浮ついた当時の若者やムーブメントの全否定なのかな?と個人的に捉えています。
どう考えてもここに出てくる若者、中身ないと思いませんか?
◇◇◇
といいつつ、私も若い頃、映画や音楽、小説、アートに夢中になり、友人たちと感想や解釈の論議を繰り広げました。
多分ナナと同じように理屈優先で中身はなかったと思われます。
しかし、それこそが若さの特権であり替えがたきもの。すなわち経験となるのだと感じます。
◇◇◇
ここまでお読みくださった若き人。
「金魚のアイコンのこのおばさん、説教くさい!」と多分お思いでしょうが、あなたも歳をとれば私のように、そしてこの爺さんのことが理解できる時が必ずやってきます。
じじばばになる前にたくさんの体験(辛いこと含め)を積み重ね論じることは生きるための盾になるやと思います。
◇◇◇
・・・ということで、ゴダール監督の死によせてパッと思いついた作品のレビューを書いてみました。サササッと書いたのでおかしな箇所があるかもですが、お許し&コメントにてお知らせください。
ちなみにこの作品『女と男のいる舗道』の原題は『Vivre sa vie』(人生を生きる)です!!!
〜以上となります。本日もありがとうございます!
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<作品情報>
Wikipediaより
『女と男のいる舗道』
Vivre sa vie: Film en douze tableaux
公開:1962年9月20日
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
原案:マルセル・サコット判事、エドガー・アラン・ポー
製作総指揮:ピエール・ブロンベルジェ
出演者:アンナ・カリーナ
音楽:ミシェル・ルグラン、ジャン・フェラ
撮影:ラウール・クタール
編集:アニエス・ギュモ